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松井 進


ようこそ,私のホームページへ


更新頻度が少なくあまり新しい情報はありませんが、あせらず、ゆっくり更新していきたいと思います。たまには立ち寄ってください。



Biography




  • 略歴
    • 1954年 京都市生まれ
    • 1973年 京都府立山城高校卒業
    • 1977年 神戸大学理学部物理学科卒業
    • 1980年 大阪大学大学院基礎工学研究科物理系専攻修了
    • 1980年 就職のため関東地区(東京都,神奈川県)に
    • 1980年 (株)日立製作所システム開発研究所(現横浜研究所)入所
    • 2012年 再就職で京都に戻る
    • 2012年 大阪工業大学情報科学部情報ネットワーク学科教授

  • 趣味

  • 家族
    • 一男一女(東京在住)、孫一人



少し長いProfile(2012年4月時点)

松井進と申します。1954年京都生まれ。京都市北区等持院で育ち、1980年、25歳の時に東京にでました。2012年4月に京都に帰り、現在、京都市中京区に住んでいます。

大将軍小学校、北野中学校、山城高校と地元の公立学校を出て、大学は神戸大学、大学院は大阪大学、京都から通っていました。就職は日立製作所に。日立は関西には事業所がなく、日立に行くことは京都を出ることになるのですが、当時はあまり深く考えずに就職先を決めました。

日立は茨城県の日立市が本拠地ですが、私は川崎市麻生区王禅寺にあったシステム開発研究所に入りました。関西から見ると川崎は京浜工業地帯のイメージですが、麻生区王禅寺は全く違い、住宅地の中に緑が多く残っている地域です。システム開発研究所も緑の中の研究所でした。大学での専攻は物理でしたがシステム開発研究所では情報ネットワークの研究室に入りました。システム開発研究所はその後、横浜研究所として横浜市戸塚区に移転しました。

関東では、王禅寺の寮を初めとし、鷺沼、町田市、相模原市、横浜市緑区と移り住み、最終的には町田市南つくし野(東急田園都市線すずかけ台駅近く)に住んでいました。いまでも子供が住んでいます。

地元の人と結婚し、一男一女をもうけ、生活の拠点は町田周辺でした。数年前までは漠然と、ずーっと町田辺りで過ごすのだと思っていましたが、年をとると京都が懐かしくなってきました。妻は1995年に病気で他界しており、子供も大きくなりましたので、気楽な身分です。また、仕事は楽しく特に不満はありませんでしたが、大学での研究や教育にも興味が湧いてきた頃でした。友達も多くできましたので日立を離れるのは少し寂しい気がしましたが、両親の体調が思わしくなくなったこともあり、京都へ帰ることを考えました。ちょうどその頃、大阪工業大学でネットワーク関係の教員を公募していましたので、ダメもとで応募したところ、運よく採用して頂けた次第です。ということで、2012年4月に京都に帰ってきました。32年ぶりの京都です。

京都では等持院の実家に住むことも考えましたが、勤め先が枚方ですし、京都の町中に住んでみたいと思い、烏丸御池辺りのマンションを探しました。一人住まいですので、近くに居酒屋やレストランが多くて助かります。快適な生活をおくっています。

プロフィールですので趣味でも書きますか。スポーツ全般はやるのも見るのも大好きです。中学高校時代は陸上競技をしていました。専門は走り幅跳び。本当は100mをやりたかったのですが、勝負になりませんでした。最高記録は6m61、これは高校2年秋に紀三井寺(和歌山)で開催された近畿ジュニア(1年だけ、2年だけの試合)で5位になった時の記録です。勉強では模試などでランキングに入ることはありませんでしたが、走り幅跳びで近畿大会で入賞したことは密かな(?)自慢です(実は中学時代も近畿大会で4位でした)。

大学時代は、高校の陸上部OBでサッカーチームを作り、京都の社会人リーグに入りました。白鷹クラブという名前でした(私は1年ちょっとしか参加できませんでしたが)。会社に入ってからは、テニス、パンポン(日立の社技でテニスと卓球の中間のような競技)、ゴルフなどに熱中しました。また、1998年のフランスワールドカップの年にフットサルを始めました。これは、同年代で飲んでいるとき「フットサルチームを作ろう」ということになり、研究所の有志を集めて始めたものです。若い人と真剣にボールを追えたのはいい思い出です。会社をやめて京都に帰る時には壮行試合をしてくれました。

大学時代まではあまり飲みませんでしたが、就職してからはビール、日本酒、ワイン、ウィスキーと何でもござれです。数年前までは、人間ドックの前日以外はほとんど毎日飲んでいました。最近は、肥満と高血圧対策で、家ではなるべく飲まないようにしています。飲みにいく場所は、就職当時は柿生(小田急線)、町田あたり、その後は新百合ケ丘(小田急線)、たまプラーザ、あざみ野(ともに東急田園都市線)、戸塚に移ってからは地元の戸塚、横浜駅近く、湘南台あたりでした。出張で都内にもよく出かけましたので、東京駅近くでもよく飲みました。京都に帰ってからは家の近くで飲んでいます。京都では基本的には一人で飲みますので、カウンターのある店に行っています。歩いて帰れるので快適です。

ホームページは数年前に始めましたが続きませんでした。今回、リニューアルしました。気の向いた時に更新しようと思います。よろしくお願いします。


ウオーキングの記録


京都に来てからウォーキングを始めました。2013年5月からはウォーキングの記録を取っています。歩行距離や歩行ステップ数だけでなく、GPSと連動して歩行ルートも記録しています。

始めた当初はmovesというアプリをiphoneに入れて記録をとっていましたが、2018年6月一杯でmovesのサービスが中止されてしまいました。movesに変わるソフトが見つからず、しばらく記録は中断していました(ウォーキングは続けていましたが)。

今回、xcode+swiftで自前のソフトを作り、記録も再開しました。ソフトのできが悪く、あまり正確ではありませんが、ご容赦ください。2019年6月からの記録です。

なお、古い記録はこちらのリンクにあります。



今月の記録

平均距離 0 km 総距離 0 km
平均歩数 0 総歩数 0


日別ウォーキングの記録(km)




距離 0 km 歩数 0



パノラマ写真(ダブルクリックで自動移動をON/OFF)


研究室



大学



御所



岩倉の奥



琵琶湖、堅田付近



宵々山



大文字山





旧東海道

2012年9月15日に旧東海道を大津から京都まで歩いてみました。家を9時頃に出発し、地下鉄から直通の京阪京津線で浜大津には9時30分くらいに着きました。浜大津のあたりは何処を旧東海道が通っていたか わかりませんが、とにかく国道1号線を目指して歩き始めました。この道は国道161号線で、琵琶湖の西側を通り若狭湾に面した敦賀まで行く道です。

浜大津から出発してしばらくは上り坂が続きます。この道は京阪京津線が路面電車として走っている道です。歩き出してすぐのところでアーケードの通りと交差します。浜大津の繁華街でしょうか?25才まで京都 にすんでましたが、浜大津を歩くのは初めてですが中央一丁目とか京町一丁目とかの地名がありますので、きっと繁華街なのでしょう。ただ、琵琶湖の近く、東側に西友などができていますので、他の街と同様に中心街は寂れた感じはします。

しばらく行くと、JR東海道線の上を通り、国道1号線と合流します。旧道はなく、車の往来が激しい場所です。位置に沿った京阪電車京津線、地下(トンネル)のJR線、新幹線、高架の名神高速も走っており、交通の要所です。この辺りが交通遮断になると、京都から東に出るのは大変です(道はあることはあるのですが・・・)。1号線の486キロポストがありました。以前に勤めていた横浜の戸塚を通っていた道がここまでつながっています。

交通量の激しい道を少し歩くと上り坂になり、逢阪の関があります。「これやこの」で始まる百人一首の句が知られています。小さい頃、正月などに家族で百人一首をしたのですが、この句は私のお気に入りの句でした。他の人に取られないようにこの句に集中していました。逢阪山のあたりには少し旧道が残っています。そこには鰻屋と「これやこの」の作者である蝉丸を祭った蝉丸神社がありました。蝉丸神社は大津からこの辺りにいくつかあります。どのような関係かは分かりませんが。

旧道の部分は少しだけですぐに国道1号線にでます。1号線に出るあたりに歩道橋があり「旧東海道を歩く人はこちら」という看板がありました。ここから暫くは、国道1号線、京阪京津線、名神高速が並んで走っています。直ぐのところに月心寺がありました。ここは江戸時代には走井餅の茶屋があったところ(走井餅は今は京都と大阪の中間にある八幡に店があります)。広重の「東海道五十三次」にも描かれています。今は殺風景な国道沿いになってしまいました。茶屋が場所を変えたのも納得がいきます。

月心寺から5分ほどで追分です。追分からは旧道を歩くことができます。また、大津と京都市山科区の境界に位置しています。旧道は国道1号線と名神高速に挟まれてはいますが、静かでいい感じのところです。1号線も名神もよく通りますが、ここにこんな場所があったとは知りませんでした。再び1号線を歩道橋で渡ると山科区四ノ宮です。この道は旧三条通でもあり、ところどころに旧道の面影も残っています。四宮駅、山科駅を過ぎると御陵近くでまた1号線(三条通)に合流します。御陵は「みささぎ」と読み、天智天皇陵があるところです。

天智天皇陵の前あたりで狭い道を左に入ります。ここから京都三条まで1997年までは京阪電車京津線が国道1号(三条通)と並行して走っていました。今は地下鉄の乗り入れています。旧道は日ノ岡を通ります。すごく狭い道で何処かの家の裏道といった感じ、東海道という雰囲気はありません。でも、昔は宿場以外はこんな道だったのでしょう。20分くらいで再び国道1号線(三条通)に合流します。

ここで京都あたりの国道1号線について少し説明します。大津から追分までは国道1号線は1本です。追分で京都の三条にでる道と五条に出る道にわかれます。三条に出る道は三条通で旧1号線、旧東海道に沿った道です。また、旧東海道は旧三条通です。また、五条に出る道は現在の国道1号線で、清水寺の近くを通り、堀川通りで南に折れて大阪に向かいます。

三条通に出て蹴上に下って行くところに「九条山」という地名があります。三条通近くのこの場所がなぜ九条なのかよく分かりません。ちなみに名高い九条葱の産地はこの辺りではなく、もっと南の九条あたりです。

蹴上げには浄水場や疎水があります。南禅寺も近くです。また、旧都ホテルがあります。以前は京都で一番ステータスの高いホテルでしたが、2002年にウエスティン都ホテルになりました。都ホテルと肩を並べるホテルだった河原町御池の京都ホテルも資本提携して京都ホテルオークラになりました。ホテル経営もなかなか大変なのでしょう。

蹴上を過ぎるとこれまで北西に向かっていた三条通が本来の東西の通りになります。ここまでくると東海道終点の三条大橋もすぐです。三条大橋の少し手前に古川町商店街の入り口があります。京都にいくつかある地元民向けの商店街です。錦があまりに有名になり観光客だらけになってしまいましたが、ここには地元の人々が集まっています。すぐ横に観光客が集まる白川が流れており、テレビドラマでもよくでてきますが(この商店街での一場面が毎回必ず入っている連続ドラマがあります)、商店街には観光客は少ないようです。

古川町商店街をすぎるとすぐに三条大橋につきました。全行程15km、3時間半くらいかかりました。このあと、尾張屋(蕎麦屋)で蕎麦とビールで疲れをとり、大丸地下で夕飯の総菜を買って帰りました。家でもビールを飲み、本日の消費カロリーの帳尻を合わせたのは云うまでもありません。



サルディーニャ島(Sardegna)

サルデーニャ島はイタリア半島の西、フランス領コルシカ島の南に位置するイタリア領の島です。四国とほぼ同じ大きさで、地中海ではシチリア島に次ぐ大きさです。人口は160万人。「羊飼いの島」とも呼ばれていて、羊の数が人間の数より多いとか。農業、漁業も行われています。また、リゾート地としても知られており、夏には世界中からリゾート客が集まります。

このサルディーニャ島にあるアルゲーロ(Alghero)に2006年9月に学会発表のために行ってきました。アルゲーロは島の北西、海岸沿いにあります。ローマから飛行機で入りましたが、前泊地のニースからローマへの飛行機が遅れ、ローマ空港を走ってどうにかアルゲーロ行きの飛行機に間に合いました。ところがお察しのとおりバゲッジは間に合わず、ロストバゲッジとなってしまいました。アルゲーロからローマへは最終便でアルゲーロには夜の10時頃到着したのですが、ロストバゲッジの手続きを済ませて空港の外に出てみると、ほとんど人がいません。一人いましたがタクシーで行ってしまいました。ここがタクシー乗り場かと思いしばらく待っていると、先ほどまでロヅトバゲッジの手続きをしてくれた職員が通りがかり「タクシーは呼んだのか?」、「タクシーは呼ばないと来ないよ」との話。他の交通機関もありません。夏時間といえども夜の11時ころは真っ暗、アルゲーロの街までは10kmほどあり、歩くこともできません。途方に暮れていると職員の方がアルゲーロの街に車で帰る人を呼んでくれました。この人はイタリア語しかしゃべれませんのでコミュニケーションは大変でしたが、街までのせてくれたばかりか、ホテルも探し出して、ホテルの前まで連れて行ってくれました。とても親切な人々で助かりました。おかげさまでホテルでぐっすり休めました。

ホテルに到着した日の明後日が学会発表の日です。バケッジがいつ到着するかを空港に問い合わせましたが、返事はどうも曖昧です。着替えや歯ブラシ、ひげ剃りなどの調達してどうにか発表を済ませました。発表を終えてホテルに帰ると、バケッジが届いていました。

アルゲーロは海岸沿いののんびりしたリゾート地です。写真を何枚か掲載しておきます。